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英語に少し自信を持つまで(2回目)

学生の頃の貧乏旅行を通じて海外と関わる仕事がしたいと思うようになり、その可能性があるところに就職しました。

 

1回目はこちらです。

binbeer.hatenadiary.com

 

当時はいわゆる就職氷河期だったこともあり、

英語を始め自己研鑽意欲が高い同期連中が多かったのは

意思が弱い自分にとっては良かったですね。

 

就職してすぐに某有名英会話学校に通い始めました。

かなりの金額払ったこともあり本人はその気になっていますが、

週一日一時間強、グループレッスンに参加するだけで

話せるようになる訳がありません。

今もこういった形態が存在するかは分かりませんが、

勧めるかと問われたら、いいえと答えます。

 

それ以外でもNHKラジオ英会話をやってみたり、

シャドウイングが良いと書いてあれば噛じってみたり、

ノウハウ本読んではフラフラ..完全に模索状態でした。

 

当時、TOEICが英語力判断の主流になりつつあり、

それ用の勉強を少ししてから受けた最初の点数が

480くらいだったと思います。

 

リスニングは殆ど分からず、

リーディングは全く時間が足りない状態で、

英語のハードルの高さを感じました。

仮にTOEICのスコアが上がっても話せるようになる感覚が

全くなかったことをよく憶えています。

 

就職して3年目に希望していた国際部門に異動となり、

日常的に英語に触れることになります。

一応、中高6年勉強しましたのでメールであれば何とかなりましたが、電話となるとからっきしダメです。

当時はライブでのやり取りは国際電話しかなく、

ある程度話す内容であったりフレーズも準備して望みますが、

想定通りに会話が進む筈はなく、

殆ど意思疎通出来ていなかったのではと思います。

 

なんとかしないと..と思いながら試行錯誤しますが、

あまり進歩は見られないまま数年が経過、

そして退職することにします。

 

2000年前半は未だ昭和的な働き方が残っていて、

毎日終電に駆け込む日々で、若いとは言え

肉体的にクタクタでした。

それ故に金曜夜の開放感は尋常ではなかったですね。

それが当たり前と思ってやっていましたが、

30歳を前にこのままで良いのだろうか‥、

ごく普通の感情を抑えられなくなりました。

 

辞めてどうするか、英語習得含め

真っ先に海外に出ることに決めます。

日本での片付けが終わりいよいよ成田に向かう日の朝の

高揚感は今でも憶えています。

 

向かった先は‥ 次回に記します。

コロナ前、米国出張の際に連れていってもらった店